日本語は英語に優る→『日本語は亡びない』


日本語は亡びない (ちくま新書)

日本語は亡びない (ちくま新書)


※ちょっと気取った文体で書いてみました。
なんでもモノゴトの上達のコツは達人の完コピ*1にあるようなのでw。


『日本語は亡びない』では、日本語と世界共通言語と呼ばれて久しい英語とを比較
し、日本語の優位性を分析している。
グローバルスタンダードの英語ではなく、日本語を、である。
日本語話者である私たちにとって、これがおもしろくないわけがない。


英語の基本構文(文章の構造)はSVOである。
主語、動詞、目的語。
ざっくりいって、英語の構成要素はこの三つである。
日本語では「愛してるよ」と言えば済むところを、英語では


「I love you」


とSVO型で表現する。
英語はこのように主語を必要とし、述語はその主語に従属するかたちになる。
著者は英語の支配的な性質をみて、英語は必然的に「力」と「正義」を希求する、
と指摘する。
なぜ「力」と「正義」を志向するのか?
S(主語)はO(目的語)を支配するからである。


「私はあなたを愛している」


ここで「私は」を抜いたらどうなるか。


「love you」(あなたを愛している)


では英文として成立しない。
英語は必ず頭に主語をいただかなくてはならない。
つまり、「私」が絶対的に必要で、その後にある「あなた」はそれによってようや
く意味あるものになる。
英語は主語抜きには意味をなさない言語である。
だとすれば、支配するものがしだいに傲慢になり、私を「正義」だと思い誤り、
「力」を行使し出して、目的語を支配しだす(偉そうに振舞う)ことにそれほど不
思議はない。


そもそも主語とは何なのか?
主語とは、主であり、神の言語である。


神と呼ばれる存在は、私たちのいる地上のずっとずっと上空いる(ことになってい
る)。
その神が人間について語るとき、神の視線はどの方向へ向けられるだろうか。
そう。
神はそこからずっとずっと下にいる人間を見下ろすために下を向く。
つまり「見下ろしながら語る」が基本姿勢になる。
私を必要とする英語は、そのようにして神の視座に居着き、目的語を支配したがる。
しかし、神は知らない。
神の視点から地上にいる人間に語り語ることが、どれほど地上にいる私たちを傷つ
けるかを。
「わたしはあなたとは違う」
というどなたかが発していた言葉が、私たちの心をどれほど傷つけたか
を。
それは「わたし」(我)と「あなた」(汝)とを切り分けた物言いであり、「我」
という「神の視点」から「汝」である「あなた」に対して言い放たれた支配的な言
葉だからである。


SVO型の英語にたいして日本語の基本構文は「述語一本立て」である。
「行ってらっしゃい」
「お帰りなさい」
といった日常的に口にし、耳にするこうした言葉があるが、これらのまえに「○○
さん、おかえりなさい」とわざわざ主語を置くことはない。
しかし、なぜ日本語には主語が用いられないのか。
それは述語のなかに主語が含まれているからその必要がないのだ。
「お帰りなさい」
という述語のまえに、私の名前が含まれていることを私たちは経験的に知っている。
だからわざわざ「あなた、今日もごくろうさま」と主語を述語の前において労をね
ぎらう必要がない。
そして、外から帰ってきた者は「ただいま」という言葉を返す。

この受け答えは、「お帰りなさい」「ただいま」と発音の順序を逆にすると真意
が分かりやすい。出迎えて「お帰りなさい」と言うのは、字句通りの「はやく帰っ
てきて」という祈りを、姿が見える直前、まさに文字通りの「ただいま」まで、唱
えていた名残ではないだろうか。対話の場への帰還をどんなに待っていたという気
持ちほど、相手への思いやりを雄弁に物語るものはないと思う。それに応えて帰還
者は不在の長さを詫びる。
長いこと対話の場を離れてすまなかった。さあ今、帰ったよ。という気持ちで日本
人は「ただいま」というのだ。『ただいま』とは「たった今」なのである。


日常的に無意識的に用いているあの言葉のなかに、これほど暖かい思いが込められ
ていたことに、つい感動してしまう。
日本語は、英語のように「我」(主語)と「汝」(目的語)のように我々を切り離
すことをしない。
上空から「我」が「汝」を見下ろすような視点をもたない。
むしろ「我」と「汝」が一体になって溶け込み、同じ地上に足をつけながら語らう
「場」を大切にする言語である。

日本語の文は「地上の視点」が基本の立ち位置で、人類はすべてどこかでつな
がっているという共存・共生を前提とする。切り離すばかりの英語とは逆方向の思
想なのだ。


「場」を尊重し、同じ地に足をつけて語り合う日本語。
著者は日本語話者であり、「地上の視点」の保有者である中島みゆきの名を挙げる。
彼女の『糸』はまさに「共生共存の思想」を表現している。



なぜ めぐり逢うのかを
私たちは なにも知らない
いつ  巡り会うのかを
私たちは いつも知らない


どこにいたの 生きてきたの
遠い空の下 ふたつの物語


縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かを
暖めうるかもしれない


シンタックス(=文の構造)こそ、意識下の思想の鋳型である」といわれること
がある。
文の構造が、私たちの考え方を作り出している、という考え方のことである。
だとするなら、日本人が共生共存の思想をもち、他者を思いやることができるのは、
ひとりの日本語和者であるからこそ、ということになる。
だから、目にしたことも口を利いたこともないけれども、おなじ地上にいる「あな
た」や「私」の営みによって他者の心を「いつか誰かを暖めうる」ことができるの
かも「しれない」と彼女は歌い上げているのではないか。
私たちが中島みゆきの歌に感涙を禁じえないのは、それは私たちが日本語話者のひ
とりだからなのだろう。
そして、この他者の心を温めあうことを構造化している日本語こそが、構造的に冷
たい印象を与えたがる英語に優る優位性なのである。

*1:完全コピーの略。