愛の物語のアップデートを→『プリンセスと魔法のキス』



リロ・アンド・スティッチ以降当りがなく窮迫していたディズニーから依頼され、その子会社である高品質映画製造メーカーピクサーのCCOジョン・ラセターがクオリティに介入していっただけあって、本作は前作ボルト同様、「人生において大切なこと」を教えてくれる大変高品質の映画となっていた*1


「欲しいもの」というのは、いくらでもある。
だけれども、そのうちのどれが本当に「必要なもの」なのか、と心に質問してみると、
「うーん。どだろ。それは絶対に必要なものじゃないかもしれない」
との答えが心から返ってきて驚いたりする。


何に驚くのかというと、心の博識ぶりにである。
心は、


「必要なもの」を知っているらしいこと。
「必要なもの」と「欲しいもの」との区別がつくらしいこと。
「必要なもの」というのはそれほど多くないらしいこと。


をなぜだか知っているということに、驚かざるをえない。
でしょ?


心は通常意識されるものではない。デフォルトで意識というものが私という主体を運営している。決断を下すのは、「意識である私」である。
しかし、この「私」は大変そそっかしいところがある。
欲しくもないものに血眼になって奔走し、本当に大切にしなくてはならないものをそれによって失ってしまうところなど、そう自嘲せずにはいられないところがある。


大抵、欲しくもないものに血道を上げるのは、それが私の欲望を刺激するからであり、その欲望の起源は、他人がそれを享受している姿をみると実にウマそうに見えるから、とかそういった外部からもらってきていることがその内実であったりする。
しかし、それが必要かどうかは意識下(どこか知らないが)にいる心に聞いてみなければわからない。


ただ、それをすることはあまりない(止められるからね)。
で、「なんだ、これ必要なかったじゃん」と少しだけ嘆いて、対した反省も悲愴感もなく、次の欲しいものを手にいれるために、再び奔走する。
こうして考えてみると、チルチルミチルの青い鳥を思い出さずにはいられない。
欲しいものは実は目の前にあった、というアレ。


正直に告白すれば、私はチルチルミチルがどんな物語なのかを知らない(ひぇ〜)。
知っていることといえば、大切なものは実は目の前にあった、というテーマのようなものだけだ。
本作でのテーマはなんだろうかと考えてみると、それは「愛が人を幸せにする」といった普遍的なものになるかと思う。


しかし、これは真実っぽいけれど、少し受け入れがたいものである。
「愛が人を幸せにする」と聞いて、今私たちはどんなリアクションを取るだろうか。
「なんだそんなもんw」と鼻で笑うのでは。
序盤で主人公の父がその言葉を口にしたとき、私は嗤(わら)った。


だが、映画が終わり、エンドクレジットが流れ出したとき、私は泣いていた。
一つ空席を挟んだ左隣に座っていた二十歳ほどの女の子は大泣きしていて、一緒に来ていた友達に、「だって、すごく良いお話なんだもん」と涙の理由を説明していた。
映画が始まるまでは、彼女も否定的な意見を口にしていたのに。
これはいったいどういうことなのか?


「愛が大事」というテーマは、何度も何度も語り継がりまくってきたものである。
それをいままで実感したことがなかった人はいないはずである。
私たちは多くの映画を観て、そのたびに、


「やっぱ愛だよな、愛」


といたく感心し、心を暖かくしてきたはずである。
ただ、私たちは、日々の忙しい生活のなかに身を置いていると、その大切なことをいつのまにかすっかり忘れてしまったりする忘れっぽいのである。そして「必要なもの」と「欲しいもの」の区別をつい見失ってしまう人種でもある。


それは時代の移り変わりによるところもある。
忙しさをする時代なれば、私たちはそこで生き延びるために、と「必要なもの」ではなく「欲しいもの」を追い求めてしまう。だから時々、情報を再入力して考えさせてやる必要がある。そうして、私たちは「愛が大事」だと、その重要性の認識をアップデートしてきたはずである。


しかし、鑑賞前の私は「愛が大事」というテーマに対して懐疑的(というよりも、もっともっと冷ややかな態度でしたね、あれは)だった。
それは、このテーマが賞味期限切れになったのではなく、テーマを謳ってきた既存の物語の説得力が賞味期限切れになったのだろう。


なぜ物語は説得力を失ったのか。
それは、「愛が大事」だと謳ってきた物語が、過去の物語になってしまったからである。
過去の物語に、説得力は宿らない。ある物語が説得力をもつためには、その時代の困難性を象徴した人物を登場させ、それによって現代性を獲得しなくてはならない。でなくては、困難に直面している私たちが「これは私のための物語である」と解釈し、それを受け入れることができない。


今なら夢や目標を叶えるための努力を過度に要請する時代か。
一生懸命努力しなければ、夢は叶わないし、幸せになれない(というイデオロギー)。
本作でそれを体現し象徴するのが黒人の女の子である。
彼女は仕事を掛け持ちして、夢を叶えるために一生懸命という形容では足りないほど働く。


「欲しいもの」に向かって努力する。それは現代の私たちの姿なのではないだろうか。だから、彼女が魔法にかかりカエルになって冒険をし、「必要なもの」を獲得し日常に戻ってきたときに、私たちはうるっときてしまうのだろう。それは「必要なもの」の獲得に対する感動であり、同時に「〜しなければならない幸せになれない」という、それまで背中に背負っていた重たいイデオロギーからの解放だからでもある。


結論に目新しさはない。
「愛が大事」だと普遍的なテーマを繰返し語っているだけである。
しかし、『プリンセスと魔法のキス』が観客の心をゆさぶり、その確信を強めさせるのは、現代の困難性を基礎とし、その上に「愛が大事」だという時代に左右されない私たちの「人生において大切なもの」をテーマに据えて作られた最新版だからである。


時代が変われば、新しい物語がいる。
それでも「必要なもの」は変わらない。
ぜひ、古くなってしまった愛の物語のアップデートを。