宗教の矛盾→『シークレット・サンシャイン』


 以前映画ヲタのあいだで話題になった韓国映画『シークレッ
ト・サンシャイン』をようやく鑑賞しました。
 とにかく重たい映画でしたが(そのわりに、ソン・ガンホ
KYキャラが可愛らしくてマル)、神の受容から否定の論理がと
ても面白かったです。



 主人公のシネは大切なものを失い精神がボロボロになってい
しまう。
 大切なものの喪失は彼女を呼吸困難に陥らせるほど苦しめつ
づけた。
 シネはこの苦しみから逃れるために、わらをもすがる思いで
キリスト教の協会(みたいなところ)を訪れた。
 そこで号泣していると神父らしき男にそっと手を添えられ
た。
 彼女はそれをきっかけに神の存在を感じ、救われる。


 余談ですが、これは超越者(の代理人)だからこそ可能な芸
当。
 そこらのおじさん(ソン・ガンホ)に手を添えられて「汝を
許す」とか言われても絶対ムリ。
 特権的立場から「汝を許す」と言われ(た気がした)るから
罪悪感や喪失感がチャラになって救われる。
 つまりおなじ地上に足をつけているものではなく、天上にい
るような超越者だからこそできる芸当であって、主と奴のよう
な関係性が大事なのだ。
 こうして彼女は「一時的」に救われる。


 しかし、その後、信じていた神の存在の否定がはじまる(否
定行為はネタバレになるので割愛。とことんやるのが面白いで
す)。
 原因はキリスト教の論理的瑕疵にある。
 彼女はある日、罪人に許しを与えることを決心する。
 それは他者に心の平穏を与えるだけではなく自己救出の行為
でもあった。
 が、キリスト教はだれにでも救いを与える。
 「イエスは主である。神はイエスを死からよみがえらせた」
と信じれば、だれでもその時から救われる可能性が生じる。
 しかし、その「万人に開かれている信仰の手軽さ」が(とい
ったら怒られそうだけど)許しを与える者から「許す権利」を
剥奪してしまい、「救われる可能性」をごっそりと奪ってしま
うこともあるのだ、という論理的瑕疵への言及がとても興味深
かったです。


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