11歳にして「大人」ヒット・ガールの衝撃→『キック・アス』


 2010年はよい年でした。年末にベスト2の作品に出会えたから。



 主人公のデイブはヒーローに憧れる高校生です。デイブはちょくちょくカツアゲされてるような男の子で、ある日「ヒーロー映画ってたくさんあるのに、なんでヒーローっていないんだろう?みんな悪事を見て見ぬふりしてるだけだし…」とヒーローの不在に注目します。
 スパイダーマンMr.インクレディブル、それにバッドマンといったバラエティに富んだヒーローが存在するわけですが、それはあくまで非リアルな世界の話。この現実には彼らのようなヒーローは存在しません。


 この問題提起ってすごい説得力があるんですよ。というのも、彼が「なんにも持っていない青年」だからです。やがてキック・アス(ケツを蹴っ飛ばすぞ)と名乗ることになるデイブは、バッドマンのようにお金を持ってるわけでもないし、スパイダーマンのように特殊能力を持っているわけでもない、ふつうすぎる高校生。ヒーロー活動を開始するとき、彼は99ドルのヒーロースーツ(通販で購入)を着てそのまま悪党退治に出かけます。
 なんて無謀な(笑)


 このキャラ設定がいいですよね。他のヒーローはいろんなものを持ちすぎなんですよ。
 イケメンだったり、会社経営していたり、超能力持ってたりね。だから「な〜んにも持ってない」という初期設定が、ふつーの観客の心にぐっと迫るんです。「あ、オレのことじゃん」って感じで。その共感が「だからこれはキミたちの映画だよ」と語りかけてくる。
 うまい設定です。


 デイブは「ヒーローがこの世界にいないならオレがヒーローになってやる」ということでヒーロー活動を開始します。ヒーロー活動の結果、ボコボコの返り討ちにあい、ついでに車ではねられ病院送りになります(笑)。ほんとにひどい展開なんですが、その描き方がじつに上手い。
 ボコボコにされるまではコメディなんですよ。車を盗もうとしているギャングの前に立って「車盗むのやめろ〜」と忠告するまでは。
 勇敢なんだけどもどこかマヌケ。そんな主人公のことを観客はゲラゲラ笑ってるんですけど、返り討ちにあうシーンが始まると突然トーンが代わります。急にシリアスな暴力シーンになるんです。
「ちょ、そんなに殴られて大丈夫かよ?」とハラハラするような展開が続きまして、とどめに交通事故シーンです。罪悪感を利用したうまい共感のさせ方だと思います。


 以上のように、映画の導入部はこんな感じでとても上手くできているのですが、主人公の内面変化の表現方法もすごく巧いです。
 ヒーローになるにはキッカケが必要ですよね。スパイダーマンにはかわいくないMJが、バッドマンには聡明なレイチェルがいました。
 では、キック・アスには誰が?11歳の女の子です。彼は11歳の女の子のために本物のヒーローになるんです。
 や、正確にいうとちょっとちがいます。彼は激しい羞恥心からヒーローになるんです。
 なぜ恥ずかしく思うのか。11歳の女の子が大人だからです*1。もうじき成人になる自分が子供で、まだ10歳そこそこの少女が大人。この逆説的な関係にデイブは深く恥じ入ります。
 ここで「大人」にならないわけには行きません。あの場面では死んでも逃げるわけにはいきません。子供だった自分から脱皮して、厳しい大人の世界に入るしかないんです。そうして彼は大人になりヒーローになります(空を「飛」んだのがその証拠)。
 

 『キック・アス』はへにゃちょこ青年が大人になるイニシエーション映画としての完成度が高いです。が、それ以上の面白さがこの映画にはあります。
 戦慄的な衝撃といっても過言ではないシーンの連続。それは11歳の女の子ーヒットガールのアクションシーンです。「世界の目覚める音が聞こえた」*2ならぬ「世界の破れる音が聞こえ」る圧倒的な経験。
 「世界の破れる音」というところの世界は、もちろん「自分の世界」のことです。つまり内側から世界が崩壊するわけです。ぼくらの常識のもっている常識や価値観というものが徹底的に破壊されてしまうから。
 ぶっちゃけた話、キック・アスの成長譚よりもヒット・ガールの活躍のほうが断然見ごたえがあります。「わずか11歳にして立派な大人」という逆説的な早熟さが超クールなんです。
 メインプロットを喰ってしまったサブプロットの魅力をぜひ劇場でご確認あれ。


*1:なぜ「11歳の女の子」なのか?ここに製作者のキャラ設定のうまさ(あるいは狡猾さ)があります

*2:モーターサイクル・ダイアリーズ』のキャッチコピー