未成年からの脱出:『冷たい熱帯魚』


 目を背けたくなるほどグロテスクで、頬が赤くなるほどエロチックな映画である一方、啓蒙的なメッセージを含んだ映画でもありました。
 この物語のどこに「啓蒙」が?



 この映画は、大量殺人事件の共犯者・社元(吹越満)の視点で描かれています。
 彼は、主犯・村田(でんでん)への心理的な負い目をきっかけに、共犯者として事件に巻き込まれていきます。


 村田という男は純粋な金銭欲から殺人を繰り返しているのですが(つまり「殺人ビジネス」です。こわっ!)、社元は金銭的メリットによって共犯者になったわけではありません。小さなコミュニティの権力者(=村田)に反抗することができず、ただ従っているだけなのです。


 社本は、突然目の前で起きた殺人事件にアタフタし、殺人犯・村田の強引すぎる論理に押し切られてしまいます。彼は反論することも、その場から逃げだすことも、警察に通報することも可能だったにも関わらず、村田の指示を仰ぐ従順な犬として動き回るようになっていきます。


 物語の後半、村田はそんな社元を「啓蒙」し始めます。


 「オレは自分の足で立っている。警察やヤクザがやってきても屈しない」
 「けど、おまえはちがう。おまえは、自分の足で立っていない」


 殺人犯のあんたにそんなこと言われたくねーよ、という感じですが、これは『ダークナイト』のジョーカーと一緒です*1
 ジョーカーは正義の味方・バットマンに「それってただの自己満じゃね?」と暗に問いかけます。相手が見たくなかったものを強引に直視させるんですね。
 村田はその和製版なのです。


 社元はいままで、「見たくない現実」に目をつぶって生きてきました。妻の隠し事も、娘の不作法も、自らの偽善性にも気づいていながら、「あえて」目を背けることで生きてきました。
 彼は行為における責任を負いたくなかったからです。目を向けることで、問題を明るみに出して対処するよりラクだからです(耳が痛い!)
 すべてはことの成り行き次第、運任せ。それが彼の処世術でした。


 しかし村田は容赦なく「見たくない現実」を突きつけていきます。


 「おまえは自分の足で立っていない」

 
 自分の足で立っている、というのは、自らの言動に責任と覚悟を負っているということです。
 村田は反社会的な行為をしている自覚はありました。だからこそ、「ボディを透明」にし、地位を脅かしそうなものを事前に排除し、リスクを最小限に抑えるという現実的な努力をしていました。


 村田は、社会的には間違いなく「悪」に分類される男です。何十人という人間を、みずからの金銭欲を満たすために殺害しているのですから、とんでもない悪人です。


 しかし、村田はある一点において、正しいようにも思えます。方法は絶対的に間違っていますが、「自分の足で立っている」ということは、否定することはむずかしい。
 だからこそ、社元は大きなショックを受けるのです。
 獣のように粗野で、下品で、暴力的な男のなかに正当性を見いだしてしまうから。


 そもそも、啓蒙とはなんだったか?

 

 啓蒙とは何か。それは、人間がみずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気も持てないからなのだ。だから人間は自らの責任において、未成年の状態にとどまるっていることになる。(『永遠平和のために/啓蒙とは何か』P.10)*2


 逆説的ではありますが、村田の啓蒙活動のおかげで、社本は「未成年の状態」を脱出し「大人」になります。彼は「自分の理性を使」って、自らの責任と覚悟のうえにおいて行動し始めるようになる。
 それはまだ未青年状態にある、娘への言動に現れていました。


 「ん? 痛いか? 痛いか?」
 「人生ってのはなぁ、痛いだよ!」


 人生は、痛い。
 それは世界の残酷さを、自分の無力を、骨身に染みるまで知らされるからです。
 できることなら知りたくはない。
 しかし、それでも人は自分の足で立たなくてはならない。
 従順な犬のまま、ありたくなければ。


 娘に宛てられたこの言葉は、同時に、過去の苦い記憶を刺激して、胸の奥深くにまで突き刺さってくる。
 それこそが、この映画の「啓蒙的メッセージ」なのだとぼくは思います。
 

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*1:

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*2:

永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)

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