「みんなのため」から「わたしのため」:『24 ファイナル・シーズン』


 『24』のファイナル・シーズンを観ました。
 今シーズンは脚本もしっかりしていて楽しかったです。



 ひさびさに観賞していて思いを強めたのですが、主人公のジャック・バウアーってすごい割りを喰ってますよね。
 アメリカの危機を何度も救っている大英雄なのに、今では職にあぶれていて、友人に紹介してもらった仕事でなんとか生計を立てられそうだという境遇にいます。
 あれだけ国に尽くし、結果を出している英雄が、まったく恩恵に与れない。
 大統領の力でなんとかならないのかね?
 

 ところで大統領ですが、あの役職についている人は功利主義者的に振る舞いますよね。
 功利主義というのは、イギリスの哲学者・ジェレミーベンサムが唱えたもので、「最大多数の最大幸福」を目指す考え方のことです*1


 たとえば、夏の旅行先を友人たちと検討していて、「わたし、海行きたい!」「オレも!」「夏はやっぱ海でしょ」「だよね〜(笑)」とノリノリの海派が4人いた場合、もう1人が「ボクはどっちかていうと、山なんだけど・・・」といったらどうでしょ?
 少数派の彼にはパーフェクトスルーが待ってます。1秒だって話を聞いてもらえません。あ、なんかぼく、軽くブルー入ってきました…。


 えっと、つまりですね(笑)、功利主義というのは、幸せ(海派×4人 or 山派×1人)を足し合わせて、数が多いほうを採用する考え方なんですね。
 『24』に登場する大統領は、もちろん功利主義者です。国民という多数派の幸せのために決断をする。ここまではいいですよね。


 問題はその先です。功利主義には必ず割りを喰う人がでてきます。それは少数派です。具体的には、自己を犠牲にしてでも問題解決に取り組むジャックだったり、テロに巻き込まれたごくごく一部の国民などです。彼らは、その他大勢の国民の「最大多数の最大幸福」のために、自己犠牲を強いられます。
 功利主義というのは、少数派が不利益を被るのは原理的に仕方ないものだと考えます。ひどい話です。


 大統領は以上のように、多数派の幸せのために少数派を犠牲にする決断をする人であり「公人」です。しかし、あるとき、「私人」になるときがあります。多数派の幸せよりも個人の幸せを優先するときがある。


 人はいつ公人から私人になるのか? 
 個人的問題が持ち上がったときです。


 今シリーズでは他国と和平協定を取り結ぶことが大統領の仕事であり、それはきわめて順調に進むのですが、あることをきっかけに決裂しそうになるんですね。しかし、大統領は「そんなことは絶対に許しません」とばかりに、権力の濫用します。


 このとき、大統領は「私人」になっています。協定を取り結ぶための動機が、個人的な幸せ(過去のシリーズと関係あり。言ってしまえば、自己肯定のため)に基づいているからです。国民のために働くべき大統領が、自分のために働いてしまっているんですね。


 これは程度の問題でもあります。「公人」モードの大統領でも、100%国民のためをを思っているわけではありません。少なからず、そこには個人の幸せ(公益に尽くしている私って偉い!etc)が含まれてます。みんなのため8割、自分のため2割としておきます。
 「私人」モードの大統領は、真逆です。80%が「やっぱ自分の幸せ大事でしょ!」で、20%が「ま、でも、国民のためでもあるんよ」になってしまっている。

 
 個人的に『24』が面白いなぁと思うのは、「みんなのため」という公人モードから、「わたしのため」という私人モードにシフトするようすが見えることです。
 それは大統領だけに限りません。国民の安全を守るCTUの職員たちも、自分の幸せに走ることがある。それまでさんざん公益に尽くし、少数派を犠牲にする厳しい決断をしてきた人たちが、ささいなこと(しかし、本人にしては大きなこと)をきっかけに、ダークサイドに落ちてしまうことがある。
 ちょw、いままであんたのこと尊敬してたのにw、とおもわず噴き出してしまうほど、それは「人間」的でもあります。そんなあまりに「人間」的すぎる姿を目撃できるところが、『24』の魅力でした。


 でも『24』とは、もうさよならなんですよね。
 寂しいよなぁ。

*1:参考図書:

13歳からの法学部入門 (幻冬舎新書)

13歳からの法学部入門 (幻冬舎新書)