操作世界に自由はあるのか?:『アジャストメント』
自由には3つの条件があります。*1
1.自分が意図した行動結果が一致すること
2.意図が行動より先にあること
3.自分の意図以外に原因がないこと
この3つの条件が満たされているとき、ぼくたちは自由だと感じます。
逆に、どれか1つでも欠けてしまうと、不自由だと感じます。
今朝は雨が降っているからバスに乗ることにしよう(2)。ちゃんとバスに乗ることができたぞ(1)。
普通、1と2が満たされれば「自由」だとぼくたちは考えます。3については、ほとんど意識しません。
しかし、もしこの世が『トゥルーマン・ショー』のように操作されている世思だったらどうでしょう?
『アジャストメント』は、自分以外の他者によって行動結果(運命)が操作されている世界です。その世界に自由意志(Free will)はあるのか、というのが主題です。
自由とはどんなものでしょか? 誰にも邪魔されず、自分の思ったことを選択し、行動し、結果を得られること。おそらく、それが自由像であり理想だと思います。
しかし、それは原理的に不可能です。なぜなら、この世界には他者が存在するからです。他者にも意図があり行動結果があります。つまり自分の意図以外の原因(3)は必ず存在するのです。
主人公・ノリス(マット・デイモン)は運命の調整現場(自分以外の原因)を偶然目撃してしまいます。
運命の調整という神のような行為を行っているのは、運命調整局の局員たちです。彼らは、組織のトップ(?)の議長によって書かれた「運命の書」(人間の行動結果が記されている本)を見ながら、そこから逸脱した人の人生を調整(アジャストメント)しています。
ディズニーランドの舞台裏のような真実を目撃してしまったノリスは、局員に釘を刺されます。
「このことは誰にも漏らさないように。もし一言でも話してしまったら、われわれは君の脳をリセットする。君はいままでのような生活を送ることはできなくなる」
彼はこの自由の制限を渋々受け容れます。
ただどうしても受け容れ難いものがありました。運命的な出会い方をしたダンサー・エリース(エミリー・ブラント)との接触禁止令です。調整局がエリースとの交際を禁じたのは、「運命の書」には書かれていないことだからです。
調整局は、エリースとのデート場所を勝手に変更したり、移動・連絡手段を阻害したり、彼女に関するウソの情報を与えられたりして、ノリスの人生を「調整」します。
人はこのとき不自由を感じるはずです。自分の意図以外の原因によって、行動結果を操作されるのを目の前で見ていれば尚更です。
では、自分の人生がすでに決められている世界に自由はないのか?
もちろん、あります。
人は、選択することができるもの。過去とか、遺伝子とか、どんな先行条件があったとしても。人が自由だというのは、みずから選んで自由を捨てることができるからなの。自分のために、誰かのために、してはいけないこと、しなければいけないことを選べるからなのよ。(『虐殺器官』,P207)*2
キリスト教の予定説のような「運命(の書)」とは、他者によって敷かれた人生のレールのようなものです。ノリスには、そのレールの上を歩む自由が、政治家の道を進む自由がありました。
しかし、ノリスはそれらの自由を手放します。たとえ(他者によって定められている)運命というものがあり、超越的な力をつかって邪魔してこようとも、オレは運命の人・エリースとともに生きる道を選ぶ。
自由は結果を保証してくれません。エリースにフラれるかもしれないし、運命調査局に脳をリセットされるかもしれません。自由に許されているのは、限りあるオプションのなかから、「私は◯◯を選択する」という「選択する自由」だけです。自由意志とはそこに「ある」ことを、ノリスが証明してくれています。
*1:
*2: