シーシュポスの岩を運ぶ者たち:『グリーン・ホーネット』


汚職や暴力や退廃がこの街の日常になっている」



 新聞社の経営者である父ジェームズは、自堕落な生活を送る息子ブリッドにそう語り、「私を見習え。私のように生きろ」と説教したあと、とつぜん死んでしまう。
 ジェームズが経営していた新聞社は、息子のブリットが受け継ぐことになった。


「The DAILY SENTINEL」(ザ・デイリー・センチネル)という新聞社の社名は、「父の役割」そのものを表していた。
 社会で日々起こる事件や出来事を報道し、人々に情報を伝えること。それがジェームズに課せられた使命であり、センチネル(監視人)としての役割であった。
 しかし、いくら報道したとしても、事件がなくなるということはない。ジェームズは終わることのない世界を生きていた。


 終わることのない世界、という意味では、ギリシャ神話に登場する「シーシュポス」に似ている。
 シーシュポスという男は、神を欺いたことで怒りを買ってしまい、巨大な岩を山頂まで転がしていく刑罰を課される。だが苦労して山頂まで運んだ巨大な岩は、その重さゆえに山のふもとめがけて転がっていってしまう。シーシュポスは、またふたたび山頂に向かって巨大な岩を運ばなければいけない。
 シーシュポスにとって、これは堪えがたいことだった。岩を運ぶことに何一つ意味がなかったから。


 ジェームズとシーシュポスのちがい。それは意味のある/なしにある。
 センチネルとして社会を監視し、社会的な事件や出来事を報道するで、人々はその情報を日々の生活に役立てることができる。ジェームズはそこに意味を感じていた。
 でも、もしそのジャーナリズムの精神(あの事件を、こういう風に伝えよう!)が侵される日がやってきたら? それは自らの行為の意味を他者に剥奪されることを意味する。 
 ジェームズのオフィスには、シーシュポスの銅像が置かれている。ジェームズ自身、シーシュポス的行為を重ねている自覚があったのかもしれない。  
 

 ところが、シーシュポスの話には続きがある。
 ある日、シーシュポスは岩をゴロゴロと転がしているうちに意味を発見する。岩を運ぶことは、他者に与えられたものではなく、「自らに課せられた重荷」なのだ、と考えるようになる。それは彼に岩を運ぶ意味を与えた。
 シーシュポスが意味を取り戻したように、ジェームズも自らのジャーナリズムの意味を再び獲得する。


 こうしてセンチネルとしての役割(意味)を取り戻したジェームズだったが、ある日、ミツバチに刺され急死してしまう。
 ジェームズの死後、息子のブリッドが経営者になった。
 彼が最初にしたこと。それは新聞社の仕事ではなく、父の銅像の頭を切り落とすことだった。
 ちょうど20年前、自分のヒーローであったフィギュアの頭をもぎ取った父への復讐だった。


 幼い日のブリットは、正義感にあふれる子どもだった。
 車の窓からヒーローのマントをたなびかせて遊んでいたのは、そこにいじめられてる女の子を守る自分を投影していたからだ。
 しかし、現実は厳しく、努力は実らなかった。
 父は、「失敗しては、努力の意味もない」と凹む息子を叱りつけ、ヒーローの頭をもぎ取ってゴミ箱へ捨てた。


 これはヒーローの象徴的な死である。
 ブリットのヒーローは父によって殺され、みんなのヒーロー(父ジェームズの銅像)は息子によって殺される。
 なぜ、互いのヒーローを殺すのか?
 父には息子の幼稚さが、息子には父の傲慢さが許せなかったから。
 他者にとってのヒーローを殺すことで、自分こそがヒーローであると暗に宣言していたのだ。


 しかし、この物語は、父と子が和解することで幕を閉じる。
 息子はグリーン・ホーネットとして社会的な事件と関わりあうなかで、センチネルとしての父の役割の苦労や使命感といったものを知った。もちろん、すべてではない。けれど父を理解し、許せるようにはなった。
 このとき、ブリットは父から本質的なもの引き継いだ。家や車や新聞社といった資産ではなかった。父が生前まで背負っていた役割ーセンチネルの継承だった。


 シーシュポスが山頂まで岩を運んだように、父が社会的な事件を日々報道したように、グリーン・ホーネットはこれから社会的な悪を監視し、闘い続けることになる。
「ザ・デイリー・センチネル」という社会監視装置のなかで悪を退治するシーンが、それを象徴している。


シーシュポスの神話 (新潮文庫)

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