ゴーストバスターがやってきた:『モテキ』


 映画版『モテキ』観てきました。
 今回も傷ついたなぁ(笑)



 『モテキ』の面白さは、作者・久保ミツロウさんによるゴーストバスターとしての仕事ぶりにあります。
 主人公の藤本幸世のもとには、かわいい女の子たちが次々と寄ってくる。で、打てば響く太鼓のように、彼女たちのリアクションはいい。でも、と長年モテなかった男の頭には、疑念がわきます。
「こんな甘い展開が続くわけないよな。だってオレ、ほかの男より全然スペック低いし・・・」
 モテててはいても、心は劣等感や猜疑心でいっぱい。ここに幸世の本音が詰まっています。そして、ここにこそ共感してしまう。
 そもそも、これに共感しちゃうのは、多かれ少なかれ「私」が幸世を含んでいるからですよね。


 では、幸世の私はどこにいるのか?
 幸世と女の子との「あいだ」です。


『評価経済社会』

 ギルバート・ライルは、「我々は機械(身体)の中に住む幽霊(心)なのだ」と言った。
 しかし機械とは身体ではない。「周囲という環境」「ネットという環境」の二つに挟まれた、私たちの髄脳。これら二つの環境と一つの肉体の"合間"に発生した「幽霊」が私たちの心だ。(p.282)


 ぼくたちは、自分のなかに「私という自己」というものが存在すると思っています。でも本当はそうじゃない。他人や環境、そういったものとの関係性にこそ「私という自己」は存在しています。
 本作で言えば、女の子と幸世の関係性。そこに幸世の幽霊(ゴースト)である私が存在する。そしてそのゴーストは「読者である私」を含んでいる。



 久保さんは、ゴーストである私(観客・読者を含む)をピンポイントで襲ってきます。
 それが、これ。




(『モテキ』2巻, p.24-25)


 ちょ、久保センセイ! どんだけ優秀なゴーストバスターを送り込んでくるんですか! そりゃ、ゴーストも死ぬわ。 
 マンガ版『モテキ』には、こうした「私」の甘い認識をバキバキにするシーンが何度もあります。何度死んだことか・・・。
 それは映画版もおなじ。

「私、幸世くんじゃ成長できない」 


 ・・・ガハッorz 


 でも。
 これがあるからいいんですよね。


『いますぐ書け、の文章法』

「文章を書くのは、人を変えるためである」
 ちょっとえらそうだけれども、でもこれが文章の根本だとおもう。
 サービスという立場から言えばこうなる。
「お客さんの時間をいただいて自分の書いたものを読んでもらうのだから、読んだあと、読む前と何かが変わったと思っていただかなければいけない」(p.52-53)


 これは文章にかぎりません。映画やマンガや小説でも同じことです。私のゴーストが一度死ぬことで、世界への認識はバージョン2.0にアップする。恋愛でいえば、女性に対する認識が修正される。私の認識はそうして成長していく。
 作品を体験することの意義は、ここにこそあるのではないかと思います。


 ご存じの通り、それぞれのジャンルに非常に優秀なゴーストバスターが存在します。『モテキ』は、恋愛ジャンルのなかでもトップクラスの超優秀なゴーストバスターです。確実に死ねます。
 死ぬのは何も読者や観客だけではありません。被害者である幸世も、もちろん同時に死にます。だからこそ、彼は失敗した仕事をプロの仕事として完結するができた。男として成長することができた。それは死ぬ前の幸世では成しえなかったことことです。


 でも、死ぬのって痛いんでしょ? もちろん、痛い。でもゴーストの死はムダにはならない。人は私の成長をちゃんと見ていてくれるから。
 『モテキ』のオチは、だからあれで正しい。


 ゴーストをバージョンアップさせたい方は、ぜひ(笑)


モテキ (1) (イブニングKC)

モテキ (1) (イブニングKC)