「資本主義はなぜ自壊したのか」 


本日も読書メモで失礼を。
今日読んだのは『資本主義はなぜ自壊したのか』です。
(注:★…じぶんのコメント、感想)

近代経済学の論理は、まず完全競争の仮定のところで無理があり(情報は平等に
配分されていない)、所得再配分のところでは、民主主義による再配分機能を過大
に評価していると言えるだろう。(『資本主義はなぜ自壊したのか』、p111)

★情報が不完全だとなぜいけないのか。
家計がモノやサービスを購入しようとするとき、損益を考慮する。
たとえば、以前から話題になっているサブプライム問題。
これは金貸しのプロたちが情報をもっていない低所得者のひとたちをターゲットに
甘い言葉で彼らの欲望を刺戟し住宅ローンを組ませたもの。
宅購入者たちも、自分達のメリット(一軒家がもてる!)がデメリット(多額の支
払い)を上回ったから購入したのである。
だが、これがのちにどのような結果に至るかということは知らなかったはずだが、
ローン会社たちは知っていたようである(でなければ、美味しいビジネスではない。
参考図書「すべての経済はバブルに通じる」)。
となれば、選択するときにおいて、フェアではなくアンフェアであったと言わねば
ならない。
新しくパソコンを買ったので、友人にいままで使っていたPCを売りつけようとす
る時、欠陥を教えずにセールスするようなものである。
家計がモノやサービスを購入しようとするときの判断材料を恣意的に隠していたこ
とになる。
これではオチオチ買い物ができない。だから情報は公に開かれていなければなら
ない、となる。
しかし、それはありえない。しかし、それはありえない。
価値は高低差にある。
つまり他者が知らないからこそ稼げる(PCの例でいえば、市場価格より高い価格で
ふっかけることができる)のであって、知っていたら差異が生じないのだから、当
然儲けもない。だからジャンクな情報だけはよく流通するが、有益な情報は常に隠
されることなる。ようするに、資本主義社会において、選択時における情報の完全
生(選択するために有用な情報)を得ることはムリな話なのである。

新自由主義グローバル資本主義は、こうしたモラルなき経済活動までをも「自
由競争」の美名の下に正当化したのであった。
 手段はどうであれ、自由競争の中で上手に稼ぐことが「資本主義の正義」であり、
その競争に敗れて食や財産を失うのはあくまでも自己責任なのだとする新自由主義
思想には、格差の拡大を正当化こそすれ、それを是正して、みなが幸福な社会、み
なが心豊に暮らせる社会を作ろうという意図は皆無である。そこにあるのは、あく
までも個々人の幸福追求であって、社会全体の幸福実現は二の次、三の次でしかな
い。(同書、p27)

★「こうしたモラルなき経済活動」とは前出のアメリカ発のサブプライム・ローン
問題のことである。
先ほどの話に蛇足すれば、サブプライムローンとは、ローン会社が信頼度の低い低
所得者層にむけてお金を融通した住宅ローンのことで、住宅を買うほど経済力のな
い人々に「土地はずっと上がり続けますから、絶対に損はしません」などと甘言を
口にしてかれらに近寄り、住宅ローンを組ませ、融通した企業側は債券を証券化
て金融市場でさっさと売りさばき利潤を得たというビジネスモデルのことである。
もちろん、その道のプロであるローン会社はどのような結果を招くか事前に分かり
きっていた。ローンを組まされた消費者がどのようなことになるのか承知の上でお
金を融資し、利得をゲットし、彼らをワナにはめた下品なビジネスモデルである。
彼らにはモラルということばが通用しない。勤め先の会社が、ひいては自分さえ儲
けることができれば、それは資本主義における正しい振る舞い方である、となる。
個の幸福追求こそが善である「新自由主義」の思想の問題がここに露呈した。
(注:新自由主義とは「私たちが暮らす社会を個人単位に細分化し、その「アトム
化」された一人一人の自由を最大限尊重するという思想」のこと(同書、p27))

 しかし、「すべては自己責任」という新自由主義的思想においては、貧しく不幸
な境遇にある人たちに対する同情は不要なものであり、むしろ有害なことである。
 そもそも彼らが貧しいのは自助努力の精神が足りないためであり、そうした人た
ちに手を差し伸べるのはかえって彼らを甘やかすことに他ならない。また手厚い制
度やセイフティネットを用意することは、努力をしないことへのインセンティブ
与えることになり、社会全体の効率を低下させるというのが新自由主義者たちの主
張であった。
(…)
 しかし、これまで何度も指摘してきたように、こうした新自由主義の思想は人々
から社会的連帯感を奪った。
「自分さえよければそれでよし」とするミーイズムが蔓延するなど、そのマイナス
面が露呈し、社会的疲弊が目につくようになったのである。(同書、p125-126)

★「社会的疲弊」というのは、昨今多発する悲惨な事件を引き起こしている現象だ
といえなくもない。
どのような方法をとったらこの苦しみを抜け出すことができるのだろうか。それが
分からず希望を挫かれたものが、「こんな世界、めちゃくちゃにしてやる」という
暴走に走ることが意外だろうか。メディアのコメンテーターには意外なことらしい
が、すくなくともわたしには容易に想像できる。
しかし、かといって、このままではまずい。
では、どうしたらいいのか。
よく言われることだが、たとえ失敗してしまったとしても、敗者復活戦のできるよ
うなセイフティネットの構築が必要だと思う。いまの日本では一度、偶然にでも落
っこちてしまったら、這い上がることは大変困難である。どのような経緯があるに
せよ、働く意欲のあるものにチャンスを与えない社会がよい社会なのだろうかとい
えば、ぜんぜんそうじゃないだろ、とわたしなんかはそう思う。