終わらせるのは誰だ:『エンドレス』


 意見はいつだって批判される運命にあります。
 何か発言すれば、後から賛否または相対化する意見が出てくる。
 ツイッターYouTubeのあるネット社会の現代では、本当にたくさんの意見が林立する時代になりました。


『エンドレス』/サカナクション

 誰かを笑うの後ろにもそれを笑う人
 それをまた笑う人
 と悲しむ人


「後ろ」の人に笑われることに終わりはありません。批判されることから誰も逃れられない。
 そんな世界をいると「耳を塞」ぎたくなります。

 AH 耳を塞いでいる僕がいる それなのになぜか声がする
 見えない夜に色をつける デジャブしてるな


 でも、声は消えてくれない。「本当にそれでいいの?」という声が聞こえる気がする。
 なんとかその声をやりすごそうとする。でも、どうしても頭から離れない。
 発言すれば後ろからくる人に叩かれる。黙っていれば、傷つくことはない。だから、黙っていよう。


 「でも、本当にそれでいいの?」

 後ろから僕は何て言おう? 後ろから僕は何て言われよう?
 見えない世界に色をつける声は誰だ


 問題は、だれがやるかだ。キミか、アナタか。
 僕、だ。

 AH この指で僕は僕を差す その度にきっと足がすくむ
 見えない世界に色をつける声は僕だ


「エンドレス」が感動を誘うのは、足がすくみながらも「僕」が色をつけるという勇気ある決断と、そこに至るまでの葛藤をみごとに音で表現してくれているから。
 声を出そうとして、心臓がドクンドクンと鳴る。その音はどんどんどんどん速くなる。色をつける決断をした後でも静まらない。いつまでも僕の胸を打ち続ける。
 だからこそ、ヴォーカル・山口氏の「僕だ」と力強い宣言が胸に響く。


 エンドレスの世界に終わりはありません。勇気ある「僕」の声も、いずれどこかのカテゴリーに回収され、相対化され、批判されてしまう。
 さんざん迷った末の決断も、あまり意味が無いのかもしれない。
 だからといって、耳を塞いだままでいいんだろうか? 
 たとえどこかに回収され、相対化され、批判されてしまうとしても、「僕はこう考える」と声を出して世界に色をつける。そうして責任を取ることでしか、個人的な問題としてのエンドレスを終わらせる方法はない。


“この時代に音楽をつくって生きていたという証拠”サカナクション山口一郎氏インタビュー

山口 音楽を発信している立場として、人間として自分はどうなのかがすごく重要になってくるんです。そこを見られるし、さらけだすから。だからこそ、磨かなくてはと思います。僕は音楽しか好きじゃないし、それしか興味がない人間として生きてきたから、せめて音楽の中だけでは健全に戦っていきたいんです。
   日常では自分で自分を指さすことはないけど、音楽の中ではきちんと指させるようになりたい。ならば自分が思ったことをそのまま歌にするしかない。そういう想いがこの『エンドレス』には入っています。